2月7日昼の話

ひょんな事から百貨店で短期バイトをしている。昔何かで観たのだが、中南米やアフリカでカカオを取る現地の人たちはチョコレートという食べ物を知らないらしい。まして彼らは女性が意中の男性に気持ちを(間接的に)伝えるという何とも奥ゆかしい行事に加担しているだなんて知らないだろう。コロニアリズムフェミニズム様々である。

さて、百貨店には多くの労働者が出入りしている関係で、それぞれの建物に大きな社員食堂がある。今働いているところは500円以内で美味しいランチを食べられるので本当にありがたい。昼の休憩は僅か1時間しかないので、素早く炭水化物を取り込む事になる。すると体内で血糖値がグッと上がり、どうしても眠くなってしまう。それを避ける為にも食後は欠かさずにカフェインを摂取しているのだが、ここの社食は中々面白い取り組みをしている。僕がアイスコーヒーを頼むと透明なプラスチックカップの中にコーヒーを注いでくれるのだが、これを手渡される時に蓋が無い。なるほど、グレタに怒られないように容器蓋を使わないようにしているんだな。などと思いながら甘味を入れよう(ハンドドリップの店ではブラックで飲む)とカトラリーコーナーへ行くと、今度はストローも無い。やぁやぁ、さすが徹底していらっしゃる。近年は大手コーヒーチェーンが揃ってプラスチック製ストローを廃止して、紙製に切り替えている。ここでは、もやはストローすら使わないようだ。無造作に置かれているガムシロップを一つ摘んで薬指と小指で挟み、そのままマドラーを探した。無い。もはやマドラーすら置いていない。ならばステンレス製のティー(or コーヒー)スプーンは置いてあるだろう。これならばステンレス製で環境への負荷も少ない。これも無い。雑然と置かれているのはフォークとスプーンとプラスチックの塗り箸のみだ。いやはや、これはどうしたものだろうか。

2年ほど前に、この店で働いた時に店員から愚痴を聞いた事がある。「私たちは目の前にある高額な商品をあたかも自分が使った事があるように売っているが、私たちの給料ではこんな高額なものを買えるわけがない。そもそも商品の良さを本質的に理解できるような生活をしていれば、ここで働いていないか。」などと自嘲気味に笑い飛ばしていたのだ。店員の言う通りである。今の時代、(わざわざ)百貨店で物を買うというのは特別な行為だ。そこで得られる購買体験は他の量販店とは一線を画す。これ故に抵抗感を感じる人もいるが、それは慣れの問題だと思う。

話をカトラリーに戻そう。皆様におかれましては日常生活でマドラーやティースプーンの類は使われるだろうか。自分はどうかと言えば、上京してからは使う機会が少ないが、一人暮らしを始めてからは多用する事になる予定だ。

僕はエコだ、ミニマリズムだという理由で道具を捨てる事が出来ない性分である。先日、友人から大学生の「宅飲み」ではワインを紙コップやらマグカップで飲むと聞いて卒倒しかけた。日本酒ならば御猪口、ワインならばワイングラス、ウィスキーならウィスキーグラスを用いるべきだと思うし、それをしなければ文化は衰退すると思う。

百貨店に話を戻すと、エコだ何だと言っているうちに従業員が一度も使った事も着た事もない「得体の知れない何か」を売ることになるのではないだろうか。少なくとも僕はパンにバターを延ばす時に適当なスプーンの裏を使うような店員からバターナイフを買いたいなんて思わない。別に百貨店に限った話ではなく様々な事に言えるが、進歩的行動は古くから残る何かを捨てる事によって実現するのだ。人々の価値観が変容していくのは当然であるが、それによって失われる文化(体験)というものにも気をつけて日々を過ごしていきたい。