僕の人生の目標

二度目の五輪が開会する筈だった日の東京は土砂降りだった。こんな天気では、開催なんてどの道無理だったのかもしれない。そう言わんばかりの激しい雨だった。僕はJR東京駅構内で買ったホットコーヒーを静かに啜りながら丸の内の疎らな人々の往来を眺めていた。
寒い。そして雨音が五月蝿い。遠出には最悪の日だ。
そんなことを思っていると、わナンバーの白色の軽自動車が目の前の車道に止まった。
「久しぶり」
「久しぶり」
鸚鵡返しのような簡略な挨拶を済ませると、彼はナビの指示に従って車を走らせた。
首都高速道路霞ヶ関料金所。
思い返すと首都高に乗ったのは数年ぶりの事だった。前回は高校時代の元親友に運転してもらってドライブした。真夜中のレインボーブリッジをSuchmosのSTAYTUNEを聴きながら渡ったのは良い思い出だ。
その時のドライバーとはそれから一度も連絡を取っていない。気がついたら彼は大学を辞め、東京から引っ越し、いま何処にいるのかは分からずにいる。

相変わらず雨は強かった。プチプチと音を立てて窓に打ちつけられる雨粒を眺めながら、運転手の彼と互いの近況を話し合った。軽い渋滞に巻き込まれたものの3時間半程度で目的地に着いた。そこは御殿場にある日本最大のアウトレットモールだった。首都圏に住んでいる人をターゲットとした時に適度に田舎な空間に超大型の商業施設を設けるのは素晴らしい戦略だ。
渋滞がなければ高速道路で2時間もかからない距離の空間に、顕示的消費の為に産まれたモノが所狭しと陳列されている。東京から訪れた人にとって往復4時間もかけて行った先で何も買わずに帰るのは「損」なわけである。つまり彼らはは来訪時点で何かを買って帰る客になる可能性が極めて高いのだ。
ところで僕が思うに、彼らがアウトレットモールで行う消費活動というのは非常に矛盾したものである。
アウトレットモールとは名の知れたブランドの商品を購入する空間だ。そして購入するだけではなく、そこには「安く」という重要な要素が加わる。端的に言えば「ブランド品を安く買う」という至上命題が、この空間を覆うイデオロギーと言える。


少し話が逸れるが、「ブランド品」の「ブランド」とはどういう意味かご存知だろうか。brandとは烙印を押すという原義がある。企業名や具体的な絵図が商品に刻印される事で、はじめて我々はその商品のアイデンティティを認知する。「あぁ、これはナイキの靴なんだな。」「これはルイ・ヴィトンのバッグなんだな」と。そしてこの認知は商品を購入した人に限らず、それを身につけている人に対しても新たな認知を与える。「この人はルイ・ヴィトンのバッグを持っているんだな」といった具合だ。前述のようなバッグを持っている人に対して抱く感情はどんなものだろうか。おそらく最も一般的な感情は「あぁ、この人は金持ちなんだな」だろう。ブランド品を持っている、つまり金持ちなんだ、と。

ここまで書けば僕が何を言いたいのかは十分に理解できるのではないだろうか。
ブランド品は各自の「高級な、洗練された」という記号によってそのブランド性というのが担保されているのにも関わらず、自らアウトレットモールという空間で嬉々として安売りしているのだ。
この矛盾を作ったのは他の誰でもない我々(僕は含まれないと言いたいが、それは不可能だろう)消費者なのだ。
言い換えればマスコミが喧伝するブランド品(各種メディアへの広告出稿費用が商品の価格を嵩上げするという愚かな循環)を1円でも安く買いたいという大衆がいるから成り立つ商売と表現できる。


日本人のブランド志向については議論が尽くされたと言っても過言ではない。バブル以後の人々を覆う喪失感を満たす為に顕示的消費が延々と続いている。本来、先進国というのは自らブランドを作り、それを発展途上国に対して売る事で更に資本を拡大させるはずなのだ。先進国になったはずの日本ではいつまで経っても舶来品信仰が収まる気配はない。
後期資本主義( late-capitalism )時代の先進国において全てのモノは道具的価値が失われ、モノが纏う記号性によって消費されると説いたのはボードリヤールだった。どうやらこの説は真実のように見える。

身に付けるモノがクラス(社会階級)を表すというのはヨーロッパで顕著である。日本にはそこまで(表面上)階級差というものはないが、それは幸か不幸か顕示的消費による愚かな消費合戦として現れたのだ。
黒塗りのベンツに乗って、腕にロレックスを嵌めていれば、それが実際はリボルビング払いを続ける多重債務者であろうが「経済的成功者」であると他人の目に映る。

 

そんな事を思いながらアウトレットモールの中を歩いていると物欲なんて消え去ってしまった。帰りの車内、連続する長いトンネルを潜りながら僕という存在の意義を考えていた。
僕が毎日8時間働く意味はなんだろう。資本主義の終焉をこの眼で見届ける事以外に仕事のモチベーションなんて無い。ただ単純な話で、資本主義が空回りして車軸が折れるには、僕に対して支払われる給料も必要なのだ。僕の月20万円程度の給料もGDPの一部になっているのだ。その数字を大きくする事が資本主義の寿命を少しでも短くする方法だと信じてやまない今は、これしか方法がないのだ。

 

だから、僕は働く。心臓の鼓動が止まるその日まで。この世が終わるその日まで。