『有給物語』1日目・朝食

玄関のドアを開けると気圧差でコートの襟がバタついた。春の風は暖かくもあるがどこか余所余所しさを感じる。

エレベーター内に表示されている時間は8:00とあったが、手元のスマートウォッチが言うには8:04だった。間違った時間を告げるくらいなら表示されていない方がマシだ。そもそもエレベーターに乗る短時間の間に時計を見る必要があるのだろうか。そんな事を考えていたら、あっという間にロビーに着いた。

駅に続く道を歩いた。いつも通る道を僅か15分遅れて歩くだけで、こんなにも景色が違うのかと思った。毎朝会う学生服の集団も、肩の落ちたジャケットを着た冴えないサラリーマンともすれ違う事はなかった。世界は思う以上にクロックワイズに動いているのだと思った。今日出会った全速力で走る学生も、遠くから聞こえてくる学校のチャイムも、ゆっくりとした動きでストレッチをする老人も、この時間にしか会えない存在なのだ。

程なくして駅に着くと、僕はどこへ行く当てもないのでとりあえず会社の最寄り駅へ向かった。僕が働く会社は昔から金融街として有名な場所にある。そこにある多くが彼らの自社ビルで、かつ、意味もなく外資系コーヒーチェーンが入居している。このチェーン店のロゴでもあるセイレーンは二つの尻尾を持つギリシャ神話の人形だ。彼女の歌声は素晴らしく、聴いたものを魅了し、そして溺れさせる怪物だと聞いたことがある。こんな怪物をロゴにした店が金融機関のオフィスの一階にあるのは素晴らしい皮肉に思えた。耳障りの良い話をして顧客に夢を与え、なけなしの退職金を注ぎ込ませて最後には評価損にする。まさに多くの金融機関がやっている事だった。このコーヒーチェーンはその親和性ゆえに入居しているのだろう。

会社と道を挟んで反対側にある店に入ると、僕は道路に面した席を取った。それから注文に行きサンドウィッチとカフェラテを頼んだ。普段なら絶対にブラックコーヒーしか飲まないが、ここのコーヒーは好きではないので混ぜ物を選んだ。

会計を終えると黒いエプロンを付けている女性がカウンター越しに話しかけてきた。

「今日は暖かいですね」

「えぇ、昼過ぎは20℃近くまで上がると聞きました」

「それは暖かいを超えて暑いかもしれないですね。このあたりでお仕事されているんですか?」

「はい。すぐそこで。」

「そうなんですね。これから出勤ですか?」

僕は一瞬、適当にやり過ごそうかと思ったがそれを考える事すら面倒だったので事実を伝えた。

「いえ、今日は有給なんです」

手際良く飲み物を作る手が、ほんの一瞬だけ、止まった。それからすぐ元の作業ペースに戻った。

「では、何か用があって来られたのですか?」

「特に理由はないんです。ただいつも通りの動きを真似ているだけです。そうしないと落ち着かなくて」

相手はこれ以上僕の話に首を突っ込まない方がいいと感じたのだろう。もう話は続かなかった。店員はプラスティックな笑みを浮かべて僕に商品を渡した。

僕は無言で会釈をして窓際の席に戻った。すると右隣の席にスーツ姿の男がいた。他にも幾らでも席が空いているのに何故か僕の隣の席に座っていた。

僕は何とも言えない居心地の悪さを感じて、自分の座る席よりも若干左にお盆を置いた。それから椅子に座って、ゆっくりとカフェラテに口をつけた。すると右耳から聞き慣れた声が聞こえた。

「やっと有給を取ったと思ったら会社の目の前まで来るなんてどうかしてるよ」

右に振り向くと、そこには上司がいた。

非常に驚いている時はリアクションが薄くなるというが、まさにそんな状況だった。

「伊藤さん。おはようございます。こんな時間にどうなされたんですか」

「野暮用があって午前休を取ったんだ。で、まだ時間があるから会社に荷物だけ置いて、ここでゆっくりしていたんだよ」

伊藤さんはブラックコーヒーを一口飲むと続けた。

「お前、こんなところで何してるんだ?」

「何もしていないですよ。ただ朝食を食べようと思っただけです」

「朝食を食べる為にわざわざ会社近くまで来たのか?随分と変わった趣味だな。おまけにコーヒーじゃなくてカフェラテなんて注文してさ。カフェラテ好きなの?」

「好きでも嫌いでもないですね。ただコーヒーの気分じゃなかっただけです」

「ふーん」


一旦会話が途切れたので注文したサンドウィッチを食べ始めた。マヨネーズの塩味が少しキツい事以外は美味しいものだった。


「有給の使い道は決めたか?」

「いいえ、全く思い浮かばないです。今朝も考えたのですが一向に良い案が浮かびませんでした」

「そっか」

「伊藤さんなら何に使いますか?」

「俺は家族がいるからな。家族サービスに使ったらあっという間に終わっちゃうよ」

一呼吸あってから

「独り身のうちじゃないとやれない事もあるからそれをやるべきだよ」

と言われた。

独り身のうちにやるべき事と言われても何も浮かばなかった。

「伊藤さんは何をしていましたか?」

「俺の事を聞いてどうするんだよ。俺とは全く趣味が合いそうにもないしアドバイスは出来ないよ」

伊藤さんはブラックコーヒーを酒のように煽ると、「お前の事情はよく分からないが、まぁよい休日を過ごしてくれ」と言って席を離れてしまった。


一人残された僕は野菜の水分でふやけたサンドイッチを食べながら窓の外を眺めた。道の反対側で同期が早足で駆けて行くのが見えた。一度寝坊をして上司に怒られてからは反省したかと思ったが、彼は相変わらず遅刻ギリギリの社会人生活をしているのがよく分かった。食事を終える頃にはカフェラテのフォームミルクはすっかり溶けて消えていた。