サンリオ・ピューロランド探訪記 〜白猫のイデオロギー〜

 就活が終わってからというもの、私が日々の娯楽に求めることは「東京に住む私文大学生っぽい」ことをする事である。残された時間は少ない。社会人になったら出来ない、時間的にやれないことをトコトンやろうと決めているのだ。このような事は一般的には意識せずとも出来るような行為であろうが、私には意識的に計画的に行わなければいけない。というより周りの人間が余りにも無計画に様々な事をしているので私の比較対象として適切でない気がする。

ということで先日、東京西部にあるテーマパーク「サンリオ・ピューロランド」に行ってきた。

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(写真:入り口にて。この写真を男二人で撮っているという光景を想像して欲しい)

 

職場の同僚がたまたま無料招待券を貰ったらしく、ありがたく2枚譲っていただいた。一緒に行った友人の詳細は伏せるが、男性である。そう、我々は「イケてない男性二人でピューロランドに行き、一通りのアトラクションとショーを体験してきた」のだ。同伴者(以下、彼)を「イケてない」と表現したのは、本人がそのような趣旨を発言していたからであって、私の主観ではない事を強調しておく。名誉毀損で訴えられたくない。彼は仮に「イケてない」としても、他人には出来ない様々なスキルがあり、向上心がある立派な人である。私の何倍も努力家だし、そして何より大人である。

サンリオ・ピューロランドとは、皆様御存知のハローキティやポムポムプリンなどのサンリオキャラクターが一堂に会するテーマパークである。舞浜や大阪港にあるテーマパークと同じ性質である。私はこれにて日本三代テーマパーク(注:私が勝手に命名した)に全て訪れた事になる。これはある種の達成感に浸っても良い出来事なのではないだろうか。社会に適合できていないと自覚しながらも、友人と一緒にテーマパークに行くくらいの社交性があることを証明できたのだ。

今回はピューロランドに行った時に感じた複数の疑問や気付きを当ブログで書こうと思う。

 

・来園者の服装の法則

 まず、驚いたのは訪れる若い女性の服装に一定の法則性があるという事だ。
誤解を恐れずに言えば、皆がジャニーズファンのような装いであった。うまく言語化するのは難しいがキーワードとして挙げるのであれば、彼女は「パステル・レース・リボン」がふんだんに用いられた服装を好んでいるように感じた。女の子らしさを十二分に感じられる格好で園内にいた。ここで私は都市伝説と思っていたような出来事を体験した。それは、ぐでたまのアトラクションに行った時の事である。ここでは様々な職業体験をぐでたまと一緒に体験できるというもので、その中に寿司屋のセットがあったのだ。そこに如何にもという格好をした女性ら3人組が居て、熱心に写真を撮り続けていた。カメラのレンズの先には当然被写体であるグループの一員がいるのだが、それにしては余りにも画角が広すぎる(写真を長いことやっているので、それくらいは分かる)。何を撮っているのかと回り込んで見てみると、寿司が提供される皿の上に10センチにも満たない人形のようなものを置いていたのだ。そう、これがアクリルスタンドフィギュアなるものであった。(自分の好きなジャニーズメンバーの全身が印刷されたスタンドを並べて写真を撮る過激派ジャニーズ組織がいる」というのは話には聞いたことがあるが、まさか自身の目で見る日が来るとは思っても見なかった。彼らは我々が後ろで写真の順番を待つのを忘れ、延々と交代に写真を取り続けていた。いや、もしかしたら彼らは夢の中で生きているため僕のような心が汚れた存在を視認することが出来ないのかもしれない。そうすれば私も「視えないならば仕方ない」とも思えるものだ。

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(写真:アクリルスタンドとの写真に勤しむあまり、我々の存在を視認できていないと思われる来園者)


少し過激な例を挙げたが、とにかくジャニーズが好きそうな人達が多かった。この話を自身の娘を連れて訪れた事のある美容師の方に話したところ、「王子様(、そして対の存在としてのお姫様)というものに憧れる人が多く集まるのではないか」という鋭い意見を伺った。なるほど、アイドルに求めるものが何かは人それぞれであるが、一つの説明付として納得のいくものである。

 

・ジャニーズとサンリオの親和性

 ここで気になるのは、サンリオとジャニーズがもつ親和性とは何なのかである。一つ言えるのは、彼らは共通して夢を売り、そして現実世界とは離れた独自の世界観を提供している。私は双方の作品研究をしたことがないので、彼らの持つイデオロギーが何かを正確に捉える事は難しい。しかし一つの仮説として、思春期を超えてもサンリオの持つある種の「幼さ」というものに惹かれる彼女らには形成された「純粋さ」があり、それが幼少期に触れたであろうサンリオキャラクターの持つ「幼さ」と重ね合わさっているのではないかと考えた。また後述するが、耳に赤いリボンを付けた白猫がショーの際にしきりに「みんな可愛くいようね」と言っているのが気になった。服装が持つ文化的な意味合いを考えると、やはり彼女らは自分たちが可愛くなければならない(つまり、カッコいい/美しいではない)と感じているのだろうか。

 

・訪れる人が求めているものは何か?

 次に疑問として感じたことは、「ピューロランドに訪れる人々は果たして何を求めているのか」だ。この場合の「人々」とは、サンリオの思うターゲット層では無い思春期以降の女性を指す。サンリオが彼らを魅了して止まない秘訣は何なのか。やはり癒しなのだろうか。パステルカラーに覆われた非日常空間に訪れ、自身の好きなキャラクターから次々と与えられる視覚的情報を無抵抗に浴び続けるのは、最早「癒し」というより「快感」に近いものだろう。この楽しさはハマった者にしか分からない素晴らしいものなのだ。
また、単に自己顕示欲を満たしに来ているだけの人々も散見した。園内には何箇所もSNSに載せる事を前提とした「インスタ映えスポット」があった。今の時代は下手なターゲット広告を打つよりも効果があるため、運営側としてもメリットを享受できるのだ。SNSで得られる空虚な自己顕示欲(=The Viruse of Self-esteem )に関しては、また別の機会に記事にしようと思う。

 

・人生において大切にすべき3つの事=かわいい、おもいやり、なかよく

 ピューロに訪れた観客の多くが最も期待をするのは、中央広場で行われるショーを観ることであろう。このショーの詳細はネタバレになり得るので触れないでおく。しかしながら、これから私が書こうとしている内容はサンリオ(キャラクター)の持つイデオローグを明かそうとする行為であり、それが一部の人間を不快にさせる可能性がある事を予め述べておく。
ショーは幸せな雰囲気で始まった。彼らサンリオキャラクターの住む世界には、神話で言うところの世界樹のようなものが存在する。それは園内の中央にある大樹である。この木が彼らの世界に安定をもたらしているようだ。
サンリオキャラクター(ここにキティーらは含まれていない)がこの木の周りを練り歩きながら何やら明るい歌を歌っていた。
ここで増田セバスチャン(注:きゃりーぱみゅぱみゅの衣服やMVの世界観を監修した事が有名なアーティスト)がデザインした極彩色の服を纏ったダンサーが踊りながら、次のような事を言った。「ここには大切な教えが3つある。それは、可愛い、思いやり、仲良く、の3つである」と。これを言い終えて間も無く園内が暗転し、我々は重々しい世界観に包まれた。毒々しいレッドとグリーンのレーザーが園内の至るところを照らした。そして悪役のダンサーが登場して、先ほどの極彩色のダンサーに攻撃していた。悪役が歌う曲が終わると、悪の女王が現れて「光が嫌い」「笑顔が嫌い」「この世界に楽しさは無い」と言わんばかりのセリフを矢継ぎ早に言い放った。

少し話が逸れるが、この時点でショーを観ている幼い子達は置いてきぼりにされていた。ある子はポカーンと悪役のダンサーを観ていたし、ある子は親御さんにしがみついて泣いていた。我々はかなり後方から観ていたのだが、ショーが怖くて退避してきた女の子が僕の隣で涙を流していた。確かに怖いかもしれない。いや、お嬢さんの思う何十倍も怖い内容がこのショーには詰め込まれているのだ。

 

閑話休題
ここで終わったら続編のあるハリウッド映画だが、ここは日本で、東京で、そして何より多摩なのでしっかりとハッピーエンドを迎えるようになっている。ご安心を。
大方の大人の予想通り、ここで真打ち登場と言わんばかりにサンリオの唯一絶対神であるリボンを付けた白猫達の登場である。
ダニエル(キティーの彼氏)が悪役を反撃し、トドメを刺そうとした瞬間、キティーがこれを制止し、「優しさと思いやりの心があれば誰とでも仲良くする事が出来る。私は彼女(悪役の女王)を信じたい」と言った。もうこの時点で反吐が出そうだったが、腕時計を見たらソロソロ終わりそうな雰囲気だったので堪えていた。

ティーは園内にいる来園者の力を集めて、彼女を改心させた。その瞬間、彼女が纏っていた漆黒のドレスが純白に変わった。この間わずか1秒。なかなかな早着替えであった。

こうして改心した女王は他のサンリオキャラクターと一緒に大樹の周りを練り歩きながらグランドフィナーレを迎えた。
そして、最後にもう一度、念を押すように「人生において大切にすべき3つの事=可愛い、思いやり、仲良く」を園内の子供達に伝えてショーは終演した。

このようなショーを一度でなくとも、複数回にわたって観た子供は何を感じるだろうか。白猫型イデオローグが、幼稚園生にでも分かるような言葉を用いて、「あなたは人に対して思いやりを持ち、周囲の人と仲良くしなければならない。そして何よりも可愛くいなくてはならない」と説き伏せるのだ。まだ彼らは批判的思考なんて持ち合わせていない。ただ無批判にイデオローグの言う事を鵜呑みにする以外に術はないのだ。思考的に無抵抗の息子娘を連れてきて、「ほらキティーちゃんが言っているんだから、この3つを守ろうね」と言えるのだ。
神格化された権威を使う事で、自分たちの言う事に信憑性と確実性を与えようとしているのだ。なんて尊大なエゴだろうか。
ここは最早キャラクターテーマパークではなく道徳教育施設になっている。
確かに現代に於いて古典的宗教が求心力を失い、より親近感の湧くものが信仰の対象になっているのは間違いない。また別の記事で述べることになるだろうが、いわゆるアイドルという存在は偶像であり、これを信仰・信奉するのは偶像崇拝と変わらないと考えている。古典的な「神様」「仏様」を子どもたちが信じないのであれば、もっと具体的でアイドル性のある存在に教えを代弁してもらうというのは非常に合理的な選択なのかもしれない。

 

・「かわいい」状態であり続けるべきと説くイデオローグの罪の重さ

 また思春期にも満たない女児に対して「可愛くいなければならない」という思想を植え付ける行為は、後々に彼女らを大きく苦しめる事になるのを気付かないのだろうか。
実際問題として「可愛い方が得をする社会」で生きていく女性達を再生産していく現場が幼少期から始まっていたなんて思うと戦慄する。しかも、こんなパステルカラーの優しさに満ち溢れているように見える世界が発信源になっていただなんで。

 

・自分が家族と一緒にここへ訪れる日が来るのだろうか

 さて、ここまでピューロランドに関して思う事を淡々と述べてきた。そして、ここからは未来に関して少し話そうかと思う。つまり、仮に自分が子供を育てる事になった時に、娘息子から「ピューロランドに行きたい」と言われたら連れて行くか否かである。正直なところ、連れて行きたいとは思わないのは前述の批評から十分に分かるであろう。しかしながら、私は一般的なサラリーマンになる予定なので、子供と一緒に過ごせる時間はせいぜい土日と年末年始くらいだ。その時間を私(やパートナー)(注:パートナーをカッコにしたのは、仮にパートナーがおらずとも特別養子縁組が可能だから)が行きたいところばかりに連れて行くのが彼らにとって楽しい思い出になり得るかは分からない。そうなると、その時に彼らが好きだった事に付き合い、十数年後の自我が確立した辺りで過去を振り返った時に「自分は好きな事をさせてもらったんだ」と思わせた方が良いのではないか、などと打算的な考えもしたくなるものである。
ただ、ここまで思想の強いテーマパークとなると話は変わってくる。極論、キリスト教の神父が息子を仏道体験会に参加させるのかという話である。自分で物事を考える力が身についていればよいが、そうでない段階で行く事により自分の教育方針に綻びが出るような事は避けたいのだ。結論としては、僕と子供たちの状況次第という事だ。

 

・私がブログを書く理由

さて、ここまで述べてきたピューロランド探訪記もこれにて終わりだ。実はこの記事を書き始めてから2週間以上が経っている。理由は、ショーに関して思った事を友人に伝えた時に「(様々な事物をここまで考えているのって)生きてるの辛くないのか?」という辛辣なコメントを貰ったからである。
正直言って辛い。まだ何十年も俗社会に身を置かなければならないと思うだけでゾッとする。そして、自分が時として俗物に成り下がるのではないかと思う。(そしてもしかしたら、もう既に生粋の俗物なのかもしれない。)
この時に僕に出来ることが何かと言えば、今回取り上げたような人畜無害に見える存在が我々に対して如何に影響を及ぼしているのかを解き明かそうとする努力を続ける事である。

これからも私には私にしか出来ない方法でインターネットの大海に記録を残していく。