僕と英語の関係性

 ここ数日ブログの更新ができなかったのは現実世界が忙しかったのもあるが、基本的には筆が乗らなかった為である。僕の隣人は、ほぼ毎日ブログを更新している。どれだけ短くても続けようとするのは凄いことだと思う。僕の場合は、写真であろうと文章であろうと、いわゆる”Art”(=人の手が加わったもの)に属するものは可能な限り完璧な状態を目指したい自閉スペクトラム症気質である。完璧でない状態を他人に晒すという行為が苦手である。その結果、大学のレポートなども締め切りギリギリになることが往々にしてある(これに関しては、そもそも着手するのが遅いという外部要因もある)。

 

ところで読者の皆様においては、先程僕が用いた「気質」という言葉をどう読むかご存知だろうか。これは「かたぎ」であり、「きしつ」ではない。高校生時代に新聞に「誤用に注意」という記事があり、そこで「気質」が紹介されていた事を思い出した。僕がこの事を当時の親友に話したところ「言語というのは用いる人によって意味内容が変わるものであり、母語話者の7割以上も間違えているような言葉は、もはや誤用する7割の方が正しい」などと言われた記憶がある。僕は彼に対して強い批判をした記憶がある。仮に親友のいう事が正しいとしても、我々は変遷を知った上で一つ一つの単語を用いるべきである。新語を除く一般的に用いられる言葉において言語の持つ歴史性を無視して用いるのは言語道断である。このような主張を自習時間の大半を割いて説いた記憶がある。そんな高校時代の親友は僕の薦めで異文化コミュニケーションを学ぶ大学へ進学したが1年前に大学を中退した。理由は詳しく聞いていないし聞いたところで理解できないのでどうでも良い。

 

今回は僕が英語とどのように触れ合ってきたのかを書こうと思う。幼少期において異文化といえば、それは「英語圏の文化」を指した。NHK教育テレビで放送される『えいごであそぼ』や『セサミ・ストリート』を母親と一緒に観た記憶がある。また3〜4歳の時に英会話学校Berlitzに通っていた。記憶が正しければ先生の名前はデレックだった。どれくらい通っていたのかは覚えていないが、アルファベット・色・簡単な名詞を先生と一対一で教えてもらった筈である。当時の僕のお気に入りの英単語は”Blue Shing-kang-seng(青い新幹線=ゼロ系)”と”Sharpner (鉛筆削り)”だった。現代の教育法においては、幼少期に週に1時間程度の英語に触れる機会があってもバイリンガルにはなれない事は明らかになっているが当時はどうだったのだろうか。

小学校に上がると、今度は公文で英語を学び始めた。今振り返ると、果たしてこれが良い効果をもたらしたのかは些か疑問である。公文式は延々と続く反復学習によって学力を鍛えようとするものである。算数・数学に関しては効果を発揮すると思うが、英語に関してはどうなのだろうか。少しでも頭の良い子であれば直ぐに「いま自分がやっている範囲では一体何を延々と書かせるための教材であるのか」に気づくと思う。このパターンに気づくことができれば、あとは頭を使わずに手をロボットのように動かしてプリントの空所を埋める作業でしかない。よって僕は英語を外国語として学ぶにあたって欠かせない文法という概念を学ぶ事が出来なかった。ただ頭の中にフワフワとパターンが浮いているだけだった。それでも気づいたら小学生の間に高校教材まで進み、どこかの大きなホテルで表彰された。今思えば、完全に親の自己満足である。アイデンティティが確立するまでの間の習い事など全て育てる人間のエゴとイデオロギーに満ち溢れたものである。

中学に入ると謎の病に身体を侵されていった。授業出席率が下がるのに比例して、学校の成績もどんどん悪くなった。特に酷かったのが英語だった。先生との相性がすこぶる悪く、僕は宿題さえやらなかった。そのせいで「英語」というものが嫌いになってしまった。僕の通っていた学校は中高一貫校で授業進度が速く、中学3年生になると高校教材を用いての授業が始まった。基礎が全くなっていないのに高校レベルの事をされても困る。もはや英語を諦めていた時、ニコニコ動画に海外のTV番組の字幕翻訳とネタの解説を付した動画を投稿されているのを見つけた。これがBBCの”Top Gear”である。3人の車オタク中年オヤジがクラシックカーからスーパーカー、果てはF1カーまで乗り、様々な企画をするという番組である。初めて観たのは日本を舞台にした特別企画で、日産GT-Rと新幹線のどちらで移動するのが速いのかの競うものであった。これが文字通り何度観ても面白いものであった。これを皮切りに次々とアップロードされた大量の動画を観た。何度も同じ動画を見ていると、次のセリフの字幕までも覚えることが出来た。すると自然と字幕に集中するのではなく、音(=彼らの発する文)に集中することが出来るようになった。頭の中で彼らのセリフを組み立て、そして対訳が字幕で現れる。その組み合わせを大量に覚えることで、日本語訳の文の持つ法則性が見えてきて、それが自然と頭に入っていった。ここから徐々に英語アレルギーが薄れていった。

高校生になると、通っていた個人指導(というより自由放任というのが適切である)塾で通称「尋問」と呼ばれる授業が始まった。尋問には2つの種類があり、1つはセンター入試の大問1にある文法問題に関して「なぜ残り3つの選択肢が当てはまらないのか」を塾長に説明するというものであった。ご存知の通りセンター試験は大学入学用の試験なので、高校3年間までに学ぶ全ての文法事項が多分に含まれた問題なのである。よって、僕は複数の文法が絡み合った文章から各々の文法事項を抽出し、その意味を理解する必要があった。2つ目は、西きょうじ先生の名著『ポレポレ』を日本語訳するものであった。『ポレポレ』を使ったことのない読者にも分かるように説明すると、この本は「難関国公立大学早慶を受験する高校3年生が入試直前の仕上げに時期に取り組むレベル」である。しかも、塾長は僕に出来ない理由を作らせない為に、これを『ポレポレ』である事を伏せていたのだ。僕はここで初めて「英文法」というものを真剣に学ぶことになった。というより、学ばざるを得なくなった。文法を知らない僕には苦痛であったが、その一方で塾長に対して完璧な訳と解説ができた時の達成感は非常に心地よいものだった。

そんなこんなで高校3年生の春に英検準1級を取得した。茨の道ではあったが、中学から(授業を真面目に聞いていないと解けない問題や無意味な暗記ばかりの無意味な)期末テストで赤点続きであった僕は、気がついたら「英語が得意なヒト」になっていた。それまで習熟度別クラスで下部に入れられていたのに、英検合格を報告した次の授業から最上位クラスに入れられたのは痛快であった。当時の下部クラスの教師の驚いた顔が一生忘れないだろう。そりゃそうだ、自分が作ったテストで赤点を取るような生徒がどうやって学年全体で4割にも満たない英検2級よりも格段に難しい準1級に受かるのか理解できる訳が無いのだ。

 

こうやって文章化して振り返ると、他人と比較した時に総合的な英語力を培った理由は分からなくも無い。ただ勘違いしてほしくないのは、僕は一度たりとも学校の成績のために英語を学ぼうと思ったことがないということだ。そもそも成績なんて本当にどうでも良かった。それは学校という箱庭の社会で一面的に評価される行為に過ぎず、僕は学校の成績より何倍も自己評価のほうを大切にしていた。今の自分がどういう立ち位置なのか、何に興味があり、それは将来どういう発展性があるのか。こういった事を同世代の誰よりも考えていた。他人から押し付けられて物事をやるのを極端に嫌う僕は、自分自身で必要と思えない限りはどんな脅しを受けてもやらない性格である。自由放任の塾に関しても、僕が全ての進捗を決める権利があり、先生がそれに応じて様々なことを教えくれるものであった。周りから見れば「雑談」しかしていない日もあっただろうが、これも必ず理由を持って話していたのだ。
英語に関してまとめると、自分の興味関心を深めるためには英語が必要で、これを続けていたら自然と出来るようになっただけなのだ。「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものである。大学に進学後家庭教師として英語を教えることになり、極度の英語アレルギーを持つ彼らの為に、如何に分かりやすく英語を教えるかに重点を置いたオリジナル教材の開発に着手した。彼らは分厚い文法書なんて読みたがらない。そんな彼らに1単元をA4で1枚にまとめたプリントを渡すことで心理障壁を徐々に下げていくことに成功した。「先生のおかげで英語が本当に好きになった」と生徒に言われ、保護者から「見違えるようになった」と言われた時の達成感は堪らないものである。

 

かくして僕は英語嫌いから英語オタクになったのであった。

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