タピオカ狂想曲 〜踊る阿呆に見る阿呆〜

 このブログを読まれていらっしゃるナウでヤングな皆様におかれましては、巷で「タピる」という行為が流行している事はご存知であろうか。

「タピる」とは、タピオカジュースを飲む行為を指す現代語である。今年の春ごろから近場にタピオカジュースを提供する店(正確にはミルクティーを中心とした飲み物を提供し、商品のトッピングとしてタピオカを入れているに過ぎない)が乱立し、そこには若い女性を中心に日中から長蛇の列を作っている。

これはもはや現代における一般常識であるが、世の中はモノ消費からコト消費に移行している。これは例えば、昔であれば臨時収入として10万円を使用できる時にブランド物等の贅沢品を買っていたであろう物質的消費(=モノ消費)を、現代ではグランピングなどの「物質的ではなく体験する事(=コト消費)」に使用するという傾向を表した言葉である。
そして何よりもコト消費は、体験をSNSに投稿するというところまでをセットで扱う必要がある。前述のグランピングであれば、SNSに投稿する際に宿泊したホテルの名前をハッシュタグにつけることが必須である。広告費をかけて作成されたグランピングに関する記事も、「夜にキャンプファイヤーしながら焼きマシュマロを食べるのはインスタ映え間違いなし!」などと宣っている。
注意してもらいたいのだが、なにもコト消費の傾向は高額なものに限らず、500円から1000円程度のコトであってもよいのである。
それはこれから述べるタピオカジュースであっても例に漏れる事はないのだ。

さて僕は就活を終えて、あと10か月もしないうちに「日本の(典型的な)私立文系大学生」というステータスを失ってしまうので、身分相応なことをして「思い出作り」をしようと考える日々を過ごしている。何をすると思い出になるのかは分からないが、僕の周囲が嬉々として各種SNS(欲を言えばInstagram)にアップする事はソレっぽい事にあたるだろう。
僕のモットーは「賞賛するも批判するも身銭を切るべし」なので、今回も消費物としてのタピオカジュースを一度も飲まずに感情だけで批判する訳にはいかないのだ。

そういう事でマスコミに紹介されるようなタピオカジュース屋に行った。f:id:Joy_jp:20190613150837j:image(写真:訪れた店)

以前、近くの店に用があり店の前を通った時は100人を超える人が並んでいた。しかし、休日の閉店間際ということもあったのか、わずか5分程度で注文ができた。頼んだものは最も一般的なタピオカミルクティーである。ここで本当に驚いたのは、基本的にタピオカはトッピングとして追加料金を払う必要がある事だった。総額で520円くらいだったと思う。自分が並んでいる間、商品を受け取る客の様子を注意深く観察していたが、予想していた事であるが、周囲の人間は店員から商品を貰っても一向に飲もうとしない。そう、撮影タイムである。

郷に入っては郷に従え、と言うのでタピオカジュースの本来の役目である「撮られる」という本懐を果たしてもらうために、我々消費者はタピオカ様の前にひれ伏した。もちろん、僕も例に漏れることなく写真を撮らせていただいた。どんな写真でも良い。写真を撮り、それをSNSにアップしなければならないのである。そして、周囲の人間はSNSにアップされた写真を無批判に「いいね」する事が期待されている。「いいね」しない事はタピオカ侮辱罪で5年以下の懲役又は30万円以下の罰金刑に処せられるので注意願いたい。f:id:Joy_jp:20190613151014j:image(写真:前科持ちになりたくないので愚かな行為だと思いながらも渋々写真を撮った)

私はこの飲み物を「飲む」という行為は、もはや要請されていないと言っても過言ではないと考える。この飲み物は栄養的に消費される事なく(皮肉にも、この類の飲み物には栄養素が全くと言ってよいほど入っていない)、写真を撮影し、SNSにアップし、「いいね」を稼ぐ事で承認欲求を満たす為の道具にすぎないのだ。ここまで具体的な批判をしたのは今回が初めてであるが、日頃から様々な事を話す友人に上記のような意見を述べたところ「それ(=タピオカジュース)を飲みに行くことを口実に友人と出かけて、いろいろと話をするという事が出来れば良いのではないか」と返された。なるほど。友人と語らうことは自身の精神を安定させるためにも大切な事である。これからの梅雨を超えれば夏本番の暑さになるが、店先(大体、こういう類の店は大通りに面した1階部分に出店しており、「行列が行列を呼ぶ」状態にしてある)の路上で数十分から数時間かけて並ぶ時間も友人とであればあっという間なのだろう。それであれば長時間に渡り外に並ぶことによって身体の水分が抜けて喉が渇いているだろうから、ぜひとも店員に商品を渡されたら即一気飲みをしてもらいたいものである。そして、「あっ、飲み終わっちゃった!」などと言いながら、空になったボトルの写真を撮り、SNSにアップしてもらいたいものである。これで友人と語らうという主たる目的を達成できるのだ。あぁ、神様、仏様、タピオカ様。

f:id:Joy_jp:20190613150348j:imageポプテピピック セカンドシーズン【1】』においても大川氏は世の中の”サブカルクソ女(原文ママ)”に対する凄まじい批判をしている。

あまりにも愚かなタピオカ狂騒曲に世間が酔いしれているので、つい独り勝手に熱くなってしまった。
さて、タピオカジュースに関して本当に冷静に考えてほしい。これに限らずとも「友人との思い出づくりの為」、「SNSに投稿して承認欲求を満たす為」、「自分と他者との繋がりを保つ為」に生み出され消費される食べ物があって良いのだろうか。僕は、「食べ物を粗末に扱うな」という美徳だけは日本で生まれ育った人が共通して持つ価値観だと思っていた。しかしながら、どうやらこの価値観は時代とともに無くなりつつあるようだ。「食べ物を食べること」そのものから精神の充足を図るのは大層結構な事であるが、「食べ物を利用」して精神の充足を得ようとするのは間違いな気がしてならない。

彼らがこの類の食べ物を摂るのは決して糖分不足だからではなく、承認欲求不足だからなのだ。そして、この愚かな拡大再生産が続く限り、我々は決して満たされない慢性的な「空腹感」を感じながら生きていく事になるのである。