なぜ僕は(原則)傘をささないのかについて

僕は友人と言える関係性の人が少ないが、引き篭もっているわけではないので仕事の同僚はいる。彼らは仕事の帰りや休憩時に僕と外を歩くと一度は困惑するらしい。その理由はタイトルにもある通り、僕が傘をささないからである。まるで傘をささない人は文明人に非ずと言わんばかりの主張をする者もいる。自分が圧倒的なマジョリティ側にいる時にマイノリティが存在する権利自体を否定するような発言をする人間の方が、何倍も文明人でないように思うのは僕だけだろうか。

 

しかし、この書き方だと読者の一部は「親の教育がなっていない」と思われるだろう。親の名誉のために丁寧に説明しておくと、親は幼少期から僕に傘を与えていたし、なんなら長靴もレインコートも使っていた。僕が傘を使わなくなったのは大学に進学してからのことである。

 

僕の大学では1年生からゼミがある。大学曰く「アカデミックな雰囲気を早いうちに味わってほしい」との事である。ゼミに入った僕はディケンズを研究する文学者の下で授業を受けた(この文学者に関しての詳細は改めて書くことにする)。このゼミは夏に行う勉強合宿への参加が単位付与の最低条件として課されていた。
合宿当日の朝、中央線通勤特快に乗って新宿へ向かっている時、電車の窓に横殴りの強い雨が打ち付けていた。人の体温と外気の湿度が車内に満ちた車両が新宿に到着した時、天気は相変わらずの土砂降りであった。慣れない新宿で、しかも雨。おまけに大きな荷物を背負った僕はバッグ底にしまってあった折り畳み傘をさすことにした。しかし父親から譲ってもらった年代物の折り畳み傘では全く使い物にならなかった。肩がしっとりと濡れた頃、ようやく集合地点に着いた。他のゼミ生も同じく雨にやられていた。ため息交じりで身体を拭いていると、遠くの方から麻シャツにハーフパンツ、そしてサンダル(恐らく全てポール・スミス製)を履いた先生が傘もささずに悠々と現れたではないか!僕らゼミ生は一同、本当に困惑していた記憶がある。
先生は我々に朝の挨拶をすると、予約したバスに乗り込んでいった。その間があまりに短く記憶が曖昧であるが、気づくと僕は先生の隣に座っていた。
しっかりと濡れた髪をタオルで拭いている先生に、なぜ傘をささないのかと丁寧な口調で質問した。すると先生は、あたかもそれが常識のように「傘をさす必要性を感じない」と言い放った。「服が濡れてしまいますよね?」と訊ねると「いずれ乾く。身体は濡れても問題ない。傘は手に持たなければならず、常に片手が塞がってしまう。折り畳み傘なんて使い物にならない。日本において取り違いや盗難の可能性が突出して高い。しかも最低でも400円程度する。」などと仰られた。とにかく先生の意見を聞けば聞くほど傘をさす意味を見出せなくなってしまった。
その昔、COURRIER JAPONか何かで読んだのだが、イギリス人は滅多なことがない限り傘をささないらしい。(今思えば全く教育的でない)BBCのTopGearを観て育った僕はイギリスという国は天候が安定せず急に雨が降ってくる=ブリティッシュ・ウェザーというものがある事を知っていた。どうやら彼らは雨に対しての一種の「諦め」があるようだ。
先ほど調べたところ、日本のような使い捨てのビニール傘というのは環境に五月蝿い英国人には浸透しておらず、傘は安くても大体3000円程度とのこと。その代わりに多くの人々が御立派なレインコートを持っており、それで雨風をしのいでいるらしい。
先生はイギリスへの留学経験があるという事で、もしかしたらその時に前述のような習慣を知り、実践したのかもしれない。”When in Englad, do as Englander.”とでも言えるだろう。こんな事があり、僕は傘をささなくなってしまった。雨天時はレインコートに、防水の靴を身につけている。身軽で良い。

そもそも僕が傘をささないことで周囲に何か大きな損害を与えているのだろうか。雨具は傘だけではない。レインコートも立派な雨具である。この際だから言及しておくと、トレンチコートとは英国が戦争をしている時に生まれた軍服であり、ギャバジンと呼ばれる綿に防水性の化学薬品を漬け込んだ布を用いたもので「雨の日に用いる外套」である。これを梅雨の時期に着るのであれば十分に納得できるが、秋晴れの日に銀杏並木を背景にインスタグラムなどに写真を投稿する人がいるとすれば、それは傘をささないことと比べ物にならないくらい愚かだ。

「道具」は「道具」として使うべきだ。