4月最後の週末、もしくは外出自粛要請から5週目の週末

 COVID-19が東京で本格的に流行し、都知事による感染爆発を抑えるための外出自粛が呼びかけられてから5度目の週末を迎えた。都心で生活を始めたにもかかわらず、学生時代に住んでいた街よりも人通りが少ない。NTTやGoogleによるスマホの移動形跡の統計によれば、週末の都心への外出は通常の2割から3割程度に留まっていると言う。一日中家に籠もっているのも苦しくなってくるので昨日の夕方に散歩をしたところ、普段であれば繁盛している筈の飲み屋街は全店が休業しており、赤提灯だけが寂しげに灯っていた。空港、駅、公園、アーケード街などは人が居ることを存在理由としている構造物だ。それを誰も利用しない現状は、言い換えれば巨大な都市・東京が一時的にアイデンティティを喪失していると言っても過言ではない。東京を東京たらしめているのは、いつまでたっても完成した姿を見ることの出来ない新宿駅でも、隅々まで手入れされた新宿御苑でも、七色に輝く東京スカイツリーでもない。我々の日々の営みなのだ。そんな事を「東京終末(週末)旅行」をしながら思った。

 

前述の散歩を除き、私は終日を家で過ごしていた。天気が良かったので何処かに行きたい気持ちは山々であったが、そもそも何処も開いていない。故に家にいるしかないので、家で本を読み耽る事にした。中高時代は本を読むのが好きで年間70冊ペースで読書していたのだが、大学に入った途端にこの習慣は失われた。原因は様々だが、最も大きなものは精神的に落ち着いた時間を得られなくなったからかもしれない。毎日が刺激的であったが、その刺激に疲れてしまい本を読む余力が無かったのだ。
閑話休題。この2日間は自室にある本を手当たり次第に読んだ。まず読んだのは水村美苗の『日本語が亡びるとき ~英語の世紀の中で~』だ。本作は、親の仕事の都合で12歳から20年近くアメリカで過ごしながらもアメリカと英語で構成された世界に馴染むことが出来なかった著者が、普遍語として世界を支配しようとしている英語を軸に日本語を用いるひとりの人として様々な議論を展開する。次に手を取ったのは80年代に日本人によって記されたフランスの紀行文である。今では一般的であるバゲットの事を「バゲット(棒状のパン)」と書いてあったり、「カフェ・オレ(コーヒーを牛乳で割ったもの)」 などと書いてあるのが逆に新鮮である。私達が普段から使っている言葉は、案外新しい外来語なのかもしれない。残念ながら絶版であるため入手困難である。

最後に読んだのはCiNiiに登録された学術論文だ。私がどういった価値観に則って思考判断をしているのかを知りたいと思い哲学書を色々と掻い摘んでみたが、どうやら僕はLibertarian(この言葉を正確に日本語訳するのは私には困難な為、以降はカタカナでリバタリアンと記す) のようだ。リバタリアニズムについて色々と調べていると、どうやらリバタリアニズムの中心概念を作り上げたのはロバート・ノージックという男のようだ。彼は『アナーキー・国家・ユートピア』という著作で、ジョン・ロックの『統治二論(市民政府二論)』の社会契約関係を表層的に取り入れながらも、全く違うプロセスをもって最小国家論を打ち立てたのである。
アナーキー・国家・ユートピア』の原著を読むことは自己理解の促進に繋がるかもしれないので、読む上で必要な前提知識を学術論文から吸収しようと思う。
来週末から史上最悪のゴールデンウィークが訪れるだろうから、その時にゆっくり学ぶ事にする。
ある程度の勉強が出来たら大学時代にお世話になった哲学者にでも連絡を取ることにしよう。